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新井智恵さん

濱田 真里
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1981年10月24日愛知県生まれ。創価大学文学部卒業。卒業後すぐに日本語教師としてカンボジアに渡り、現在はNPO日本地雷処理を支援する会不発弾事業企画・経理主任。

「仕事が向いているのかも、自分が教師として使い物になるのかも分からなかった」

濱田:新井さんがカンボジアに来られたきっかけは何ですか?

新井:大学2年生の終わりにボランティアで1ヶ月孤児院に寝泊まりしながら英語を教えたことがきっかけです。とにかくカンボジアに行きたいと思っていたら、ちょうど日本語教師のお話をいただいたので大学を卒業してすぐにカンボジアで働き始めました。ただ、その時は日本語教師のトレーニングを日本で受けただけで、経験はなかったんですよね。だからこの仕事が自分に向いているのかも自分が教師として使い物になるのかも分からなかった。でも、まずはやってみて、だめだったらその時考えようと思って来ることにしました。

濱田:ご両親の反対はなかったんですか?

新井:父は「これからは国際化の時代だ」と言ってくれたけど、母は「わざわざ海外に行かなくても」って言っていたんです。でも、実際に話が決まった時に一番喜んでくれたのは母でしたね。私がやりたいと思っていた道に進めたことを喜んでくれた母にはすごく感謝しています。私が海外に出たことで両親は逞しくなったんじゃないかな。海外に出ると海外に出た人がすごいねと言われがちだけど、その人のことを日本で支えている人の方が大変だと思います。

濱田:新井さんはなぜそこまでカンボジアに惹かれていたんですか?

新井:ボランティアで行った孤児院での経験が強烈だったんです。国境近くの孤児院だったのもあって、子ども達のバックグラウンドがすごかったんですよね。タイで人身売買をされて保護された子だったり、親に売られてしまった子だったり。彼らの経験してきたことを知ったことで、自分にも何か出来ることはないか、という思いが強くなったんです。もちろん日本から支援をするという選択肢もあるけれど、私はこの問題の原因がカンボジアの社会的な問題にあると思って、現地で直接何かするためにこちらに来ました。

濱田:どのような社会的な問題があると思われたんですか?

新井:彼らのような子どもたちを受け入れる体制が社会にないことに問題を感じたんです。彼らの話しを聞くと、皆「よく生きていたな」と思うような経験をしてきているんですよ。それなのに、私みたいにどこから来たかも分からないような外国人を受け入れてくれて。彼らの経験を考えると、人を受け入れる能力があること自体すごいと思うんです。彼らは精神的にタフだし、可能性を秘めている。だから環境さえ整っていれば、彼らはいくらでも可能性を広げられるんじゃないかと思ったんです。でも、社会には彼らのような子どもたちに焦点を当てた活動が少ない。そこで、自分に何か出来ることはないかと考えました。

「厳しく言ってくれた人がいたお陰で、自分の原点に立ち返れた」

濱田:カンボジアには日本語教師として渡航されたんですよね?

新井:はじめは自分に何が出来るかなんて分からなかったんですけれど、何かしらの武器を持っていなきゃいけないと思って、とりあえず日本語教師として渡航したんです。結局それは1年で辞めてしまったんですけどね。

濱田:それは何故ですか?

新井:当時はまだ日系の企業が少なかったから、日本語の需要があまりなかったんです。私は日本語を教えるだけじゃなくて、その先の就職でも子どもたちの力になりたいと思っていたけど、実際に日本語を使う仕事といったらガイドか翻訳家くらい。それで日本語教師の限界を感じて、辞めました。

濱田:その後は何をされていたんですか?

新井:実は半年くらい無職でした(笑)。

濱田:その時に日本に帰ろうという気持ちにはならなかったんですか?

新井:よく聞かれるんですけど、あんまりならなかったんです。でも、周りの人には大丈夫?帰ったら?って言われていました(笑)。特に当時尊敬していた先輩に、「大学を卒業して、来たいからってすぐに来て、仕事もない。たとえこの後仕事をもらえたとしても大したポジションはもらえないし、後に続かないから帰りなさい」と言われた時は本当にショックで、もう大泣きしながら帰りました。でも、ふと「あれ、何で泣いているんだろう」って思ってよくよく考えたら、結局言われたことが全部当たっているから、悔しくて泣いているんだなと気付いて。だったら、そうならないように自分のスキルを上げよう!と思って、英語とカンボジア語の勉強し始めたんです。そうやって厳しく言ってくれた人がいたお陰で、自分が何故来たのか、何をやりたいのかという原点に立ち返ることができましたね。

濱田:結局その後仕事は見つけられたんですか?

新井:その時はとにかく仕事がなくて大変でした。知り合いに相談したら、こっちには日本みたいな就活がないから、タイミングとコネだ!とか言われて(笑)。そんなのどうしようもないじゃないですか。その後バイトの話がちょこちょこあって、なんとか繋ぎながらやっていくうちに今のNGOに出会って就職することができたんです。

「貧困の中で生きたことは、自分の中ですごく貴重な経験」

濱田:なかなか仕事が見つからずに生活が苦しかった時期もあったと思うのですが、その時のことを振り返ってみてどう思われますか?

新井:お金はあったらあっただけ選択肢が広がるし、自分のことだけじゃなくて親のことも考えると、お金は必要だなと思います。でも、貧困の中で生きた経験というのが私は嫌いじゃないんですよね。あれを一回経験出来たことは自分の中ですごく貴重な時間だった。本当にお金がなかったんですけど、カンボジア人の目線で社会を見られたし、何もないというのはある意味すごく自由なんですよね。それこそ友達と遊んでいても、コーラ一杯でどこまでも楽しめる!みたいな(笑)。あの時期が苦しいばかりだったかと言われたら、決してそうじゃなかった。あの貧困の時期に戻りたいとは思わないけど、感覚は忘れちゃいけないなと思います。

濱田:今の団体ではどのような活動をされているんですか?

新井:爆発しないまま残った危険物の回収処理や、爆弾や武器倉庫を撤去したりしています。活動をしていて大事だなと思うことは、現地スタッフに自分達がやっていくんだっていう当事者の立場に立ってもらうこと。やっぱり全部をやってあげることは出来ないので、私は彼らを救う立場ではなくて、あくまでもサポートをする立場でありたいと思っています。そもそも私達がやっていることって彼らが自分達の国のために自らやらなくてはいけないことだから、彼らがもっと良くしていこうって思わない限りは支援も実を結ばないんじゃないかな。いつか支援がなくなっていいような社会にならないといけないと思うし、実際にそうなっていけば良いなと思いますね。

濱田:新井さんは今後どうされていく予定ですか?

新井:今後のことはわからないですね。でも、ゆくゆくは日本に戻ろうと思っています。初めの頃はずっといようという気持ちの方が強かったんですけど、両親が年を取ってきたので、元気なうちに帰った方が良いかなという思いもありますし。家族を大事にするということも権利なのだとここで学んだので、それをわざわざ放棄するのも違うかな、と。そろそろ親孝行しようと思います(笑)。


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