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照井加奈子さん

濱田 真里
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米国ペンシルバニア州立インディアナ大学大学院終了後、2005年9月から2006年3月まで国連本部で研修。同年6月より国連開発計画コソボ事務所にUNVとして派遣され、2009年10月よりJICAバルカン事務所企画調査員としてマケドニア、アルバニアにおける事業形成に携わる。2011年12月末から現在まで、JICA援助調整専門家としてコソボ政府欧州統合省に所属、コソボにおける日本ODAの円滑実施、拡大のために同省能力強化に取り組む。

「健全な教育が出来る社会作り」に関わりたい

濱田:元々国際開発支援分野で仕事をすることを目指されていたのでしょうか?

照井:いいえ。小さい頃からピアノをやっていたので、音楽の先生になりたいと思っていました。大学も教育学部で声楽専攻でした。しかし、中学校の時の先生が青年海外協力隊の経験者で、体験談を聞き、「いつか自分もやれたら」と心のどこかでずっと思っていたんです。大学4年生の時に音楽教師という職種で教員として協力隊を受けたのですが、経験がないからと不採用でした。「経験を積んでから来て下さい」と言われ、卒業後に地元の小学校で講師をさせていただいた後に再受験し、合格して音楽の先生としてシリアに行くことになりました。

濱田:シリアではどのような活動をされていたのですか?

照井:協力隊員として2年間、パレスチナの難民キャンプで小中学校の先生をしていました。その時シリアではちょうど、反イスラエルのインティファーダ(民衆蜂起)が行われており、小学校1、2年生くらいの子どもたちが、先生に勧められて校庭でイスラエルの旗を燃やしたり、宿題でイスラエルについて悪く書いたりしていたんです。そういうことに必死に従っている子どもたちを見て、「戦争の後に産まれた子どもたちなのになぜこんなことをしなくてはいけないんだろう」と憤りを感じました。それがきっかけで民族紛争や中東問題に興味を持ち、今の活動に繋がる大きな原点となりました。

濱田:パレスチナで現実を目の当たりにして、国際開発支援の道に進まれることを決意されたのですね。

照井:そうですね。健全な教育が出来る社会を作っていかなくてはいけないと。そういう分野で日本が行う支援に携わっていけたらと思うようになりました。

すぐに自分の方向性がわからなければ、色々試してみればいい

濱田:協力隊員の活動が終わったあとはどうされたのですか?

照井:国際関係の仕事をしたいと思っていたので、アメリカの大学院に進むことを決めました。ですが、英語を話すことに不安があったので、まず語学学校に通いました。きっかけは、パレスチナから帰国してJICAの進路相談の方に、「そういった仕事をしたいのなら、英語は絶対に使えるようにしなくてはいけないし、大学院で修士号を取らないといけない」と言われたことです。英語を勉強する学校を本で探したところ、ペンシルバニアの州立大学付属の語学学校を見つけたのでそこに半年間通いました。ここではとにかくしゃべることを集中的に学びましたね。

終わったらイギリスの大学院に行こうと思っていたんですけど、結局そのままアメリカに残りました。というのも、語学学校のコースが最終クラスになると、大学付属なので大学院の授業を取れるんです。そこでアメリカのPeace Corp(教育や農業分野などでの発展途上国援助を目的とする米国の長期ボランティア派遣プログラム)出身者の教授と、エジプト人で中東問題の研究をされている教授に出会い、興味分野を学べそうだったのでこのままここで勉強することを決めました。

濱田:大学院での生活はどうでしたか?

照井:私は大学で音楽教育を学んでいたので、最初は授業で何を言っているのかさっぱりわかりませんでした(笑)。でも、周りの人がすごく助けてくれて。学園都市で、おじいちゃんおばあちゃん以外は学生しかいないような町だったんですけど、とにかくみんな夜まで勉強していましたね。もし、もっと早くに自分の方向性がわかっていたら、大学卒業後に一直線で国際機関に行っていたかもしれないです。でも、今振り返ると回り道できて良かった。企業に入ったり、興味のあることを試したりした後に大学院に行くのも良いのではないでしょうか。私はこれからも迷いながら前に進んでいきますし、そうやってやりたいことを見つけていくのだと思います。

この国がどのような方向に進むのか、これからも見ていたい

濱田:その後、コソボにはどのような経緯で来られたのですか?

照井:大学院での卒業条件として、論文かインターンシップを選べたのですが、実際に国際機関で働いてみたいと思い、OCHA(国連事務局人道問題調整部)のインターンシップを6ヶ月させて頂きました。非常に面白い仕事だと感じ、研修後半に国連ボランティア(UNV)でコソボの人員募集があったので、そこに応募して幸運にも採用されてコソボに行くことになりました。それ以来この地域にいるので、もう7年目になります。

濱田:かなり長い滞在ですね。

照井:そうですね。その中でもUNVボランティアや、マケドニアでのJICAの仕事など、さまざまな立場でのプロジェクトに関わらせてもらいました。JICAや国連の仕事に関わることで、国際社会の中で日本の支援がどのように展開されているかを見たり、そこに実際に関われたりしたことが良かったですね。将来は、二国間・多国間支援の両方で日本の支援の一端を担っていけるようになることができればと思っています。

濱田:そうなのですね。今後の活動のテーマは何かありますか?

照井:やはり子どもの成長する環境に興味があります。教育に限らず、社会の中で子どもが成長していく際に、事実として歴史を学ぶ中で他の国や異民族に対する嫌悪感や敵対心まで教わってしまう、というのはいけないと思うんです。今は開発全般の仕事をしていますけれど、どうしてもそこに目がいきますね。子どもたちが人種や民族、宗教や生まれた環境に縛られない教育を受けて、のびのびと大人になっていくような社会を作れる仕事に携わっていければいいなと思っています。コソボの今後の成長は引き続き見守ってみたいです。

濱田:なぜ今後もコソボに関わっていきたいと思われるのでしょうか?

照井:私は仕事をしながら独立前後のコソボを見てきたんですけれど、これからもこの国がどんな方向に進むのか見たいんです。近年、セルビアとの関係正常化に向けた対話も進んでいますし、様子も変わってくると思います。また、プライベートの面では、私の夫がコソボ人だということも関係していますね。ニューヨークで出会ったんですけど、彼は紛争を体験している人なので、紛争中におばあちゃんを背負って林の中に逃げた話とか、今の生活からは想像できないような話を聞くことがあります。

濱田:日本に住んでいると紛争を実感するようなことがないので、話を聞いても現実感があまり沸かないのですが、そんなに遠い昔の話ではないのですね。

照井:そうですね。でも、今のコソボは復興に向けて進んでいると思います。「民族紛争」とか、危険で不穏なイメージが強いかもしれませんが、今後は、もっと明るい前向きなイメージを発信していかなくてはいけません。コソボは国民の平均年齢が若い国です。国内や海外の高等機関で勉強し、自分たちで何か始めようと躍起になっている若者がたくさんいます。こういう人たちが明るい社会を作っていけるような環境づくりができればと思います。


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