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中山万帆さん

濱田 真里
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駐在員になれると思い、国際交流基金に入社した

濱田:海外に興味を持たれたきっかけを教えて下さい。

佐藤:父が石油プラント設計の仕事でサウジアラビアに駐在していたので、その影響があったと思います。また、私のような70年代生まれは時代の流れもあり、国際交流や開発途上国の問題に強い関心を持った世代でした。JICAのような組織がみんなの憧れの存在でしたね。

私は東京大学の教養学科で比較文化について勉強したのですが、「援助を受けている国は、そのやり方を実際に望んでいるのだろうか。本当に求めている貢献は何なのか」ということをよく考えていました。その後、ロンドン大学のSOASと呼ばれる地域研究が有名な大学院で、社会人類学を1年勉強して修士号を取得。帰国して1996年に国際交流基金に入社しました。

濱田:国際交流基金を選ばれた理由はなんだったのでしょうか。

佐藤:一番の理由は、希望すれば男女問わず駐在ができることでした。私は駐在員として現地に派遣され、現地情報の日本への発信や地域交流をしたかった。それができるのは新聞社だと思い、何社か受けて内定をいただきました。

そんな折に、国際交流基金の面接を受けたところ、女性役員の方に「佐藤さんはお酒が飲めますか?」と質問されたんです。それまでマスコミの圧迫面接ばかり受けていた私にとって、女性役員がいることも質問内容も、とても新鮮で面白かった。調べてみると、国際交流基金は男女問わず駐在員になれる環境だったので、迷わず決めました。

また、私が駐在員になりたかった理由には、国際援助等に対する地元住民たちの反応を知りたかったこともあります。大学院で社会人類学を学んだ頃は、植民地諸国に対する欧米中心主義の内省が行われている時期でした。

日本政府も様々な国際援助をしていたので、地元住民と日本政府の間には葛藤があるはずだと思ったのです。考え方の対立があった時に、倫理的な落とし所を探し、最終的に現地の人のためになるものを作れる人になりたかった。そのために、まず現地に行きたいと考えていました。

苦労を共に経験した現地スタッフたちとは、強い絆で結ばれている

濱田:入社した後、どのような流れで駐在員として派遣されたのでしょうか。

佐藤:アジアセンターに3年間勤務後、国際交流基金の企画部で5年間仕事をし、30歳で4年間のインドネシア駐在を命じられました。そこでは現地と日本との間で研究者やアーティストの交流会を行ったり、イベントの企画運営をしたりといった地域貢献型の仕事をしていました。

希望して駐在しましたが、大変なこともたくさんありました。ローカルスタッフがバスで携帯を盗んだ疑いをかけられて捕まったり、2003年頃はジャカルタで爆弾テロが多発していたため、オフィスが入っているビルにも爆弾テロの予告が入ったり。

また、現地スタッフとの意思疎通は大変でしたが、乗り越えてひとつの成果を出せた時の達成感は素晴らしいものでした。人間、苦労した時の方がよく覚えているものです。大変な時期を共に経験した現地スタッフたちとは強い絆ができ、会社を辞めた今でもとても仲が良いですね。

濱田:爆弾テロ予告をされたなんて驚きです。

佐藤:私がインドネシアにいた頃は、スハルト政権が98年に倒れた影響で地域紛争が増えていたんです。スマトラ島北部のアチェ州やパプア州などの地域では独立運動が起きていて、分離独立運動と政府との対立がありました。

アチェから逃げてくる人もいましたし、NGOで働く友達と話していると「今日はアチェで銃撃戦があって、これだけの方が亡くなった」という話が日常で。紛争が身の回りにあったので、関心を持つようになりました。

アチェは天然資源が豊富で、元々アチェ人として複数の国家を持っていたのです。でも、オランダに植民地化されたことで、インドネシア独立後はその一部になりました。アチェは特別自治区にしてもらおうとしたのですが、叶わず。

その後70年代から紛争の程度に波があるものの、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)による武装闘争が続いている状況でした。2002年にはメガワティ政権下でいったん停戦合意が交わされますが、2003年に合意は破棄されインドネシア軍との全面戦争という展開になりました。

2005年8月に和平協定が結ばれましたが、紛争を終焉へと導いたものは皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらした2004年末のスマトラ沖地震と津波でした。

私はアチェに対して何かしたいという気持ちをずっと持っていたのですが、政府機関に勤務していたため動けず。それが悔しくて、文化交流を通じて何か貢献できないか考えた結果、戦争で被害を受けた中学生・高校生を30人集めて演劇を作るワークショップを開催することに。戦争によってトラウマを抱えた子達との交流は、とても繊細で難しいものでした。

でも、演劇の後は子どもたちや現地スタッフたちとの間にとても良い関係が生まれましたね。第1回目の参加者たちとの同窓会後、引き継いだ後輩スタッフによって、近隣の村から他の子どもたち30人を集めた第2回、第3回目のワークショップも開催されました。

個人としても何かしたかったので、国際交流基金を退職後、友人とロータリー財団の人たちと協力して2009年にチャリティパーティーを開催しました。そこで集めた約150万円で、ワークショップを開催した子どもたちの村に図書館を5ヶ所設立。2011年にアチェに行くと、図書館が7カ所に増えていたんです。図書館がない地方にも設立するために、ワークショップを受けた子どもたちが指揮を執っていて感動しましたね。

若い時に、それぞれが通らなくてはならない道があるのだと思う

濱田:インドネシアから帰国後はどうされたのでしょうか。

佐藤:人事異動で日本研究・知的交流部や理事長補佐の仕事をした後に退職し、現在は笹川平和財団の一員として、タイ深南部というところで紛争解決を目的に活動しています。

ここはもともとパッタニ王国というイスラム教徒のマレー系王国があったのですが、現在のタイであるシャム王国に負け、20世紀初頭にタイとイギリスの協定により国土を分割されて、南半分はマレーシアに、北半分がタイ国家に組み込まれました。

タイは仏教徒が94%という国で、時代によって政策に違いがありますが、タイ語教育、タイ化が様々な形で展開されており、現地の人々は自らの文化や言語が脅かされていると感じ、武装組織中心にゲリラ戦を展開しています。アチェと歴史や経緯こそ違いますが、似た構造です。独立運動で多くの民間人が亡くなっています。アチェで何もできなかったことを後悔した経験が、今の仕事に私を駆り立てているのだと思います。

濱田:佐藤さんはこれまで海外大学院留学や駐在など、様々な選択をされてきていますが、どのように物事を決断されていますか。

佐藤:決断を下す時は頭だけで考えて決めません。もし決断に迷ったら、具体的に想像できるかどうかを判断基準にしています。想像できない場合は、考えるのをやめて寝かせておくんです。

その間に周囲の環境が変わり、実行する時が来たりするもの。理想があっても計画通りに進むものではないので、タイミングが訪れた時に次の一歩を考えればいいと思います。積極的に動いたり想いを人に伝えたりすれば、チャンスはきっと巡ってきます。

私は30歳でインドネシア駐在の決断をした時、この先の結婚や出産がどうなるのか不安もありました。でも、現地で過ごしたことで人脈や仕事をしていく基盤ができ、キャリア形成の核となる経験ができました。この選択をしたことに、まったく後悔はありません。きっと若い時に、それぞれが通らなくてはならない道があるのでしょうね。私の場合は、それが海外駐在だったのだと思います。


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