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岡本麻里さん

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高校生の時から、写真家になりたいと思っていた

濱田:現在ライターとして活動されていますが、昔からライターになりたいと思われていたのでしょうか?

岡本:ライターではなく、写真家になりたいと思っていました。きっかけは、親の転勤で行ったイギリスの高校の寮で出会った女の子の一言。いつも写真を撮っている子がいたので「そんなに撮ってどうするの?」と聞いたら、「写真家になりたい」と言われたんです。「あ、私も写真家になろう!」と勝手に運命を感じて、すぐにカメラを購入しました。高校卒業後はロンドンのインターナショナルスクールで写真の勉強をしていたのですが、当時は若かったから自分を疑うことなんて何もなかった。大学卒業後は写真家になると答えていましたね。

イギリスの就職活動は、日本のように活動時期が決まっておらず、自分のペースで自由にやります。だから、卒業後はバイトをしながら自由に写真活動をしていたのですが、高校から海外に出た私は日本人なのに日本のことをあまり知らなかったので、母国のことをちゃんと知るために1年後に日本へ帰国することに。まずは日本で働こうと思ったんです。でも、日本で就職活動をしても写真関係の仕事が見つからない。そこで、自分には事務処理は向いていないだろうから、会社勤め以外の仕事を探していたところ、たまたま沖縄県での塾講師の仕事を見つけたんです。私は都会が苦手なので、沖縄だったらいいかもと思いそこで働くことにしました。

濱田:沖縄県ではどれくらい働かれたのでしょうか?

岡本:合計3年間勤め、当初掲げていた「日本を知る」という目的を達成しました。子どもに教えるのは好きでしたが、塾はずっと私がいる場所ではないと思ったんです。心のどこかで自分が本当にやりたいことは他にあるはずだとわかっていました。まだここに落ち着くには早い、もう一度外に出ようと思って転職活動をしたのが26歳の時。そこで改めて自分がやりたいことを考えたら、「やっぱり私は写真に戻るべきなんじゃないか」と思ったんです。それで、家の近くにある写真スタジオでカメラマンのアシスタントとして働き始めました。面白くて勉強になったんですけど、実力がないのに早く自分が撮る立場になりたくて6ヶ月で辞めました。「継続は力なり」なのですが、なにか先を急いでいた気がします。

その後は、家の近くにある横浜の新聞社に入りました。そこは1ヶ月に1回、教習所内で出す新聞を作るのですが、とにかく暇で。それでお金をもらえるのは楽なのですが、ここにいても自分はあまり経験を積めないと思って1年半で辞めました。当時28歳で、この歳になるまで何度も仕事を変えてきて、自分は一体何をしたらいいのだろう……と焦っていましたね。それで、とにかく悩んでいてもしょうがないから、一度海外に出ちゃえ! と思ったんです。でも、周りの人たちから何も目的なく海外に行っても意味がないと言われて、だったら英語以外の語学留学をしようと思いつきました。ヨーロッパの人たちよりも私はアジアの人たちの方が緊張しないのと、昔バックパッカーで周って馴染みがあったので、東南アジアの国にすることに。昔からタイ語の響きが好きで物価も安かったので、タイの語学学校に通うことにしました。

欲しい本がなかったので、自分で作ったことが始まり

岡本:バンコクの方が語学学校は充実していたのですが、静かな環境が良かったので、チェンマイ大学の外国人専用の語学クラスに8ヶ月間通いました。ちょうど学校が終わりに近づいた頃、仲の良い友人2人がこっちに来て、一緒に観光をしていたんです。そしたら彼女たちがご飯を食べながら、「これだけ安くて美味しいものが屋台で売っているけど、もし麻里のような案内人がいなかったら、食べたくても入れなかった。これってもったいないよね。そういう屋台の紹介本があればいいのに」と言い出したんです。友人は編集者とデザイナーをしていたので、ないんだったら自分たちで本を作ろうという話になり、私は写真・記事担当で、ご飯を食べる度に写真を撮りだしました。

あくまでも同人誌的なものを日本のフリーマーケットで売ったら楽しいだろうなという軽い気持ちでしたが、私が持って帰ったファイルが5、6冊になり、もったいないから出版社に売り込んでみようという話に発展。実現すると思っていなかったのですが、いくつか出版社をまわると「やりしましょう」というお話をいただいて。そこから3年後の2002年に『タイの屋台図鑑』が出版されました。日本だと私と同じような仕事をしている人がたくさんいるので競争に負けてしまうと思うのですが、チェンマイだからできたんですよね。1999年から住み始めて、現在で14年目。「タイやチェンマイファンが増えればいいな」と思って活動しています。

自分の生き甲斐と居場所を、チェンマイで見つけた

濱田:本を出版されたことで、ライターとして活動を始められたのですね

岡本:私の場合は、ライターになって本を出したというよりも、本を出したら周りの人が「岡本さんはライターさんなんだね」と認識してくれるようになりました。だから、本を見た人からライターの仕事の話をいただくようになったのですが、経験不足で自分の実力が追いつかず、苦労しましたね。最初は記事を書いても書き直しばかりで、でもその時期に色々と勉強させてもらいました。やりながら「私はこの仕事が好きなことだな」と思いましたね。思い返すと、文章を書くことも写真を撮ることも、新しい場所に自分の足で行って情報を集めることも昔から大好きだった。なんでこの仕事を思いつかなかったんだろうと思うほど(笑)。ライターという仕事は自分の中で腑に落ちていますね。今は、20代の時のように自分を探すという悩みはありません。書くことが好きだし、それを今後もやっていきたいと思っています。高校生の時に抱いていた、自分の写真集を出すという夢も、屋台ご飯の写真集という形で実現させることができて幸せですね。

濱田:昔からの夢を叶えられていて素敵です

岡本:色々紆余曲折しましたが、結局写真と関わる仕事をすることになりました。多分、最初に写真家になりたいと思った時に、その道でもっと努力すれば良かったんですよね。そしたら遠回りしなくて済んだかもしれないのに、自信がなくて怖くて別の仕事に逃げてしまった。でも、写真に関わらないことをやっても本当に自分のやりたいことじゃないから、結局どこかで違うと気付いてまた振り出しに戻ってくる。結局、人生の中で向き合わないといけないことからは逃げられないんだと思います。私は寄り道ばかりしていたから人の倍時間がかかってしまいましたが、自分がやりたいことに対して最初から努力している人はすごいと思いますよ。

今までずっと、「私はどこで何をしたら幸せなんだろう」と自分の生き甲斐と居場所を探していました。
そして、やっとチェンマイでその場所を見つけた。私は大の旅行好きなのですが、チェンマイに来たら「もうここにいれれば良い」と思って、旅行する気がなくなってしまったほど。この変化には自分でも驚いています。今はチェンマイのことを発信していくことが生き甲斐です。引き続き、この場所で自分らしく暮らしていきたいと思います。


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