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青砥茉由さん

濱田 真里
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たった2週間のカンボジア滞在が、人生のターニングポイントに

濱田:現在のお仕事について教えて下さい。

青砥:カンボジアのシェムリアップを拠点とする「ロイヤルアンコール国際病院」で唯一の日本人スタッフとして、日本人患者対応や医療通訳、コーディネーターをしています。

この病院の外国人患者率は日本人が圧倒的に多いため、観光客が多い時期になると大忙しです。休日や夜間に関わらず、通訳要請の電話は24時間体制でかかってくるため、始終携帯電話を握りしめることも。

それでも、言語の面で不安を抱えながら受診される方の通訳を担当し、診察後に「安心しました」「ありがとうございました」と言っていただけた時に、この仕事をしていて良かったと思います。

医療通訳の仕事は、単語をひとつ間違えただけで命に関わる危険もあります。私はクメール語を独学で学んだので、この部分は特に肝に銘じながら働いています。

濱田:学校で通訳の勉強をされたのかと思っていました!

青砥:英語を使う仕事がしたくて、高校と大学では英語を専攻していましたが、クメール語は全く。私はカンボジアで医療通訳士を元々目指していたわけではなく、最初は「カンボジアで何かしたい」という思いでNGOにボランティアスタッフとして飛び込みました。

カンボジアに出会ったきっかけは、大学3回生時に大学で開催された「カンボジアスタディーツアー研修」。当時は国連でいつか働きたいと思っていたので、国連職員が実際にどんな現場で活動しているのか、自分の目で見てみたかったんです。「国際協力とは何か知りたい」という漠然な思いを持って足を運びました。

シェムリアップでは観光をし、プノンペンでは歴史や社会学習、そしてカンボジアの地方都市であるプレイヴェン州のNGOでは、日本語教育ボランティアとして宿舎に滞在しました。

たった2週間でしたが、この時カンボジアの現状を見て受けた衝撃は、今でも忘れません。来る前は英語圏で仕事をすることしか頭になかったのが、滞在期間が終わる頃には一気に考えが変わり、もっとカンボジアの現実を見たいと思うように。

それ以降、カンボジアに何度も行き、頻繁にNGOの宿舎に通っていたのですが、訪問するたびに現場では様々な変化がありました。

でも、短期間滞在でその原因を探るのには限界があるので、長期滞在を考えるように。大学卒業前の卒業旅行では1ヶ月間カンボジアに滞在。その帰国後、「自分には専門知識も技術もないけれど、やはりカンボジアに行きたい」という気持ちが抑えられなくなり、両親に相談しました。もうすぐ就職するのに何を言っているんだと、ふたりとも絶句していましたね。

話し合った結果、父からは最低1年は日本社会を経験してみなさいと言われ、母からは石の上にも3年だから、3年は頑張ってみてと言われました。そして、数年後にカンボジアに行きたい気持ちがまだあったら、再度相談しようと約束し、就職することにしたのです。

念願かなって住み始めたカンボジアで、何もできない無力感を感じた

濱田:新卒でどのような会社に入られたのでしょうか。

青砥:冠婚葬祭の会社に入社しました。本当は国際関連機関や新聞社に入りたかったのですが落ちてしまい、社長の話に感動したこの会社に決めました。

半年間は葬祭スタッフとして現場研修し、その後は営業企画の仕事を担当。仕事の合間を縫ってはカンボジアを訪れ、新卒1年目のお正月をカンボジアで過ごした時に、改めてカンボジアで働きたいと思うように。

帰国して両親に気持ちを伝え、「お母さんとの約束は守れないけれど、お父さんとの約束だった1年は守ったから、送り出して欲しい」とお願いしました。そしてちょうど1年勤めて退職し、2008年5月からカンボジアとタイ国境のポイペトの村を拠点とするNGO宿舎での生活をスタートしたのです。

濱田:カンボジアに行かれた時は、仕事は決まっていたのでしょうか。

青砥:決まっていない状況でしたが、いつも滞在させていただいていた教育関連NGOにボランティアスタッフとして関わることになっていました。でも、私は教員免許や教育の知識がないため、スタディツアーの対応くらいしかできず。ツアーは長期休暇の期間だけで、それ以外の時期は全く仕事がありません。

それでも生活をしていると、周りにいるカンボジア人たちが食事や生活の世話をしてくれる。私が手伝おうとしても、「危ないからしなくていいよ!」と拒否されるため、遠くから見るしかできない。

そんな生活を1年続けた頃、「私はこのままここにいていいのだろうか」と考えるように。「私はみんなの生活の中に勝手にお邪魔して、負担をかけているだけなのでは」という無力感が大きくなり、一度日本に帰国することにしました。

実家に帰って両親にその気持ちを話すと、ふたりは帰って来なさいとは言わずに、また送り出してくれました。英語が中途半端で、クメール語もほとんど話せない自分に何ができるのか、悩みながらカンボジアに戻りましたね。

状況打開のきっかけを掴んだ場所は、たまたま用事があって行ったシェムリアップで宿泊したゲストハウスでした。ご飯を食べながらロッカーに視線を向けると、日本人ホテルスタッフの募集記事が貼られていたんです。

ダメ元で応募すると、「すでに採用済みです」と断られたのですが、数日後にホテルから「もうひとり採用したいので、働きませんか」というメールが届き、即決で承諾のメールを送りました。

これまで学んできた3つの言語を使って、いつかプロの医療通訳か翻訳家になりたい

濱田:ホテル勤務の際は、クメール語を使われていたのでしょうか。

青砥:日本人と外国人客対応が中心だったので、お客様に対しては使いませんでした。でも、クメール語を上達したかったので、カンボジア人スタッフにお願いし、業務中は英語とクメール語を半分ずつ使うように。

また、ホテルの同僚だった今の夫と付き合い始めたのも、語学上達の大きなきっかけです。彼は英語を話せるのですが、クメール語の方が意思疎通しやすいので、なるべくクメール語を使うようになりました。

医療通訳の仕事は、ホテルスタッフ業務に身体的・精神的に限界を感じて転職を考えている中、インターメットでたまたま募集を発見。「語学を使った専門的な仕事ができそう」と思い、すぐに履歴書を送り、面接の翌日採用されて今に至ります。2年間のホテルスタッフを経て2011年に医療通訳としてのキャリアチェンジをし、2014年に彼と結婚しました。

濱田:今後やりたいことについて教えて下さい。

青砥:
カンボジアで培った医療通訳としての経験を、今後外国居住者が益々増加する日本で活かしたいと思うようになりました。カンボジアで長年「外国人」として過ごした中で、公私共にカンボジア人の方に沢山サポートしてもらったので、今度は日本で「外国人」の方の役に立ちたいと考えています。

将来的にはこれまで学んできた3つの言語(日本語、英語、クメール語)を使い、プロの医療通訳か翻訳家になりたいですね。そのために、これからも勉強を続けていきたいと思います。


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