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川村千秋さん

濱田 真里
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簡単に何でも経験できてしまうことが、必ずしも良いわけではない

濱田:1996年からシンガポールに移住されていますが、海外に興味を持たれたきっかけについて教えて下さい。

川村:中学3年の夏に3週間カリフォルニアのホームステイ研修に参加したのがきっかけです。地元の静岡新聞で旅行会社がこの研修の参加者を募集しているのを見て、「海外に行ってみたい」と単純に思ったんです。研修内容は、アメリカ人の家庭に3週間泊まり、平日の午前中に英語のレッスンを地元の小学校で受講するというもの。

私は英語の成績が良いわけではなかったので、両親はこれに参加すればもっと英語の勉強を頑張るかもしれないという期待を込めて、参加させようと思ったようです。でも、当初父親がなかなか理解してくれず。研修ツアーなので実際はひとりではないのですが、「女の子ひとりで海外に行くなんて、何かあったらどうするんだ」と反対され、その一方で、母親はすぐに理解を示してくれましたね。

驚いたのは、この研修の件で校長室に呼ばれたこと。母親と一緒に行くと、「どんな人と行くのですか」「あまり周りを羨ましがらせないで下さいね」といったことを言いながら、しぶしぶ参加を承諾してくれました。今考えると、夏休みに外部研修でアメリカへ行くことに学校の許可は必要ないと思うのですが、そういう時代だったんです。父親には、「行かせてほしい!」と一晩大騒ぎした結果、根負けして行くのを許可してくれました。

この研修は、とにかく楽しい記憶ばかり。サンフランシスコ北部にある人口3万人ほどの小さい町で、想像通りのアメリカ生活に夢中になりました。でも、たった3週間で語学力がそこまで伸びるわけがないんです。それなのに、友人から「アメリカに行ったのに、英語の点数が伸びないんだね」と言われたのが悔しくて、英語の猛勉強をしました。

その後、高校の廊下で1年間のアメリカ交換留学のポスターを見て、「絶対に行きたい」と思い、両親に相談。でも、父親は3週間ならともかく1年なんてと大反対。しかも今度はカリフォルニアのような大都市ではなく、派遣先は団体側が決めるので、どこに行くかわからないんです。

結局、母親が一晩かけて父親を説得してくれて、「留学試験に受かったら行ってもいい」ということになりました。そして無事試験に合格し、高校3年の時に、インターナショナルフェローシップの1981年度生として念願の留学を実現。

ニューヨーク・マンハッタンから車で2時間の、田舎の公立高校に1年間通いました。単位互換制度などなかったので高校は休学扱いになり、卒業年度は1年間遅れましたが、そんなことは気になりませんでしたね。

濱田:2回の留学とも、お母様の後押しが大きかったように思いました。

川村:そうですね、母親が協力してくれなければ、私はここまで海外と関わる人生を歩んでいなかったと思います。当時はインターネットがなく、アメリカから日本に電話すると10分で3000円ほど。頻繁に連絡できないので、海外に行くなんて子どもを放り出すも同然です。そんな時代に勇気を持って私を送り出してくれた両親には、本当に感謝しています。

高校留学時は、ホストファミリーの家に到着してすぐ、郵便局に行って「I am happy and safe」という電報を出しました。色んなことが今と比べて不便でしたが、だからこそ「この期間をちゃんと自分のものにして帰ってこないといけない」という引き締まった気持ちで日本を出ることができましたね。簡単に何でも経験できてしまうことが、必ずしも良いわけではありません。獲得するのに苦労した分、そのチャンスにかける思いは相当強かったように思います。

「この国で私は一生を終えていいのか」という漠然な不安を抱え、シンガポールで転職

濱田:高校留学はいかがでしたか?

川村:中学時代に行ったカリフォルニア研修とは全く違いました。研修はお金を払って参加するのでお客様対応でしたが、高校は現地の高校生と同じ立場です。卒業証書をもらって帰ろうと決めていたので、高校3年生の必修授業を受ける必要がありました。

毎日必死で予習をして、授業に食いつく日々。それでも宿題を人並みのスピードでこなせず、英語ができないからグループ学習では思いっきり厄介者扱い。一生懸命相手をしてくれるのは、最初の1ヶ月だけですよ。でも、黙っていても興味を持ってもらえないので、自分の方からできることを伝えていくようにしました。

環境に飛び込んだのは自分なので、文句を言っても仕方がない。良いとか悪いとかではなく、自分が合わせていかないといけないんです。この厳しい環境の中で、海外で生きてく覚悟ができたように思います。

濱田:帰国後はどうされたのでしょうか。

川村:高校卒業後は日本の大学に進学し、卒業後は新卒一期生として東京の外資系投資銀行に約10年間勤務しました。機関投資家向け外国債券の営業職で仕事は刺激的で楽しかったのですが、ドイツの統合により債券価格が暴落し、自分の力ではどうにもできない現実に直面しました。

その時に「金融業界以外で働こう」と転職を決意。修学旅行や研修旅行を中心に扱う旅行会社に入り、企画営業をすることに。給料は下がりましたが、自分の中高時代の留学経験を活かせるので面白かったですね。

上司にも恵まれ仕事自体は楽しかったのですが、31歳くらいの時に、「この国で私は一生を終えていいのか」という漠然とした不安を抱えるようになったんです。そこで候補に上がったのがシンガポール。前職の出張で初めて行った際に、経済発展の様子に魅せられたことと、シンガポール人と結婚した高校時代の友人を何度か訪ね、現地採用で働ける可能性を知ったことがきっかけで、「ここで就職活動してみよう」と思いました。

日本から現地の人材紹介会社にFAXで自分の履歴書を送ると、4社から面談のオファーが入りました。3社の面談を受け、元大使館医務官であるフランス人医師たちによってシンガポールに設立された、緊急医療および危機管理専門会社へアシスタントマーケティングマネジャーとして入社。3年後にシニアマネジャーに昇格し、日本を含むアジア太平洋地区9カ国を担当しました。

サービス内容は、海外旅行傷害保険に加入した人が緊急時に連絡するコールセンターの管理で、私は現場を視察するために、月の半分は東南アジア出張でしたね。

濱田:出張がとても多く、体力的に大変そうです。

川村:飛行機で飛び回る生活は確かに大変でしたが、本当にキツかったのは、その後の仕事でした。会社が2社を買収したタイミングで、買収会社の日本オフィスの人員削減を任されたんです。当時36歳でしたが、50歳くらいの自分の父親と同年代の人たちを首にするという、とても精神的に辛い仕事でした。

この経験を経て私が言えるのは、「組織の中で働く以上、個人的感情に振り回されずに時としては職制でものを言うことができなければならない」ということ。「自分より一回り歳下の小娘が何を言っているんだ」と受け取られると、会話が成り立たなくなってしまうので、「川村としてではなく、アシスタントジェネラルマネジャーの責任にある者としてお話しをさせてください」と伝えた上で、退職交渉をしていました。

全ての人に対して公平性、自分の立場の中立性、情報の透明性を保つことにより、誠意は汲み取ってもらえましたし、職務も全うすることができました。

日本に1年間滞在する予定だったのですが、突然会社から呼び戻され、7ヶ月で急いで終わらせてシンガポールに戻ることに。そして冷酷なことに、なんと整理解雇で私自身も首を切られることになったのです。

正確には、1年でシンガポール所属に戻される予定が、「もうここにはあなたの仕事がないから、残るなら日本か、シンガポールの別部署で受け入れます。あなたが経験のない業務なので、給料は下がります」というもの。忘れもしない、1999年12月5日の金曜日の出来事でした。

会社というものは非情だなと思いましたが、組織を運営するには、どこかでこういうことをやらなくてはいけない時がある。それは東京での退職交渉を通じて私自身が痛感していたことでした。結局、年末付で退職することにしたのです。

ロールモデルにできるほど、人の人生は単純ではない

濱田:退職後はどうされたのでしょうか。

川村:まだシンガポールで働きたいと考えていたのですが、たまたま以前からお声がけいただいていた人材紹介のヘッドハンティング会社から失業中にメールが届き、すぐにそこへの入社が決まりました。

2000年の3月から、リージョナルディレクターとしてシンガポール本社に3年半勤務した後、日本オフィスに人員が欲しいという話と、シンガポールマーケットがちょうどSARSの影響で縮小していたので、3年間の駐在契約で日本に移動することに。でも、任期が終わってやっとシンガポールに戻れると思いきや、次はバンコクオフィスの立ち上げを任されて。

これまでシンガポールで培ってきた色んな人たちとの関係が、どんどん疎遠になってしまうので、次こそはシンガポールで長期間働きたいと思っていました。転職も考えたのですが、会社に所属している限り、こういうことは常に起こります。散々振り回されてきたので、もう十分だなと思い、起業を決意。

会社の協業規定に退職後1年以内は競合他社に入ることや、競合のビジネスを立ち上げることが禁止されていたので、1年後の2006年に起業し、管理職層の求人を専門に扱うプライムサーチインターナショナルを設立しました。そして、2009年にプライムビジネスコンサルタンシーを設立し、今に至ります。

濱田:これまで様々な経験をされてきていますが、キャリアを築かれるなかで、川村さんがロールモデルにしている方はいますか?

川村:ロールモデルの存在など、これまで考えたことなく歩んできました。人の生き方に興味があるのでインタビュー記事などを読むことはありますが、他人の生き方を真似して満足する人生が送れるほど、人の一生は単純ではないと思います。

誰かの成功を聞いて真似しようとしても、時代背景や個人の資質が違えば同じことをやっても結果が変わってきます。不確実性の高い時代だからこそ、ロールモデルを求めやすいのかもしれませんが、誰かを真似するよりも、様々な情報の中で普遍的なものを抽出し、応用する能力の方がこれからは重要ではないでしょうか。

私自身がこれまで大事にしてきたことは、「判断力と行動力」です。海外という、これまでの常識や経験がそのまま生かせない異文化の中で、普遍的に重要な資質だと思います。走りながら考える柔軟性も必要です。

私が日本を離れて今年で23年目になりますが、こうした哲学を持ってこれからも生きていきたいと思います。


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