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野竹彩香さん

濱田 真里
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不登校だった幼少期を経て、中学2年生で念願のアメリカ留学

濱田:現在ニューヨークでランジェリーデザイナーとして働かれていますが、今の職業に興味を持たれたきっかけを教えて下さい。

野竹:7歳頃に読んだマンガ『ご近所物語』の世界観に惹かれたことがきっかけで、いつかファッションデザイナーになりたいと思うようになりました。自分が着る服に対するこだわりを小さい頃から強く持っていたのですが、地元の長野県では着たいと思える服がなかなか手に入らず、「自分で好きな服をデザインして作れたらいいのに」と思っていて。手先が器用だったので裁縫や編み物も好きで、もの作りに没頭する幼少期を過ごしていました。

濱田:中学2年生以降ずっとアメリカに住まれていますが、それはデザイナーを目指すためだったのでしょうか。

野竹:デザイナーへの憧れはありましたが、その当時はどうすればなれるのかはわかっていませんでした。私がアメリカ留学を選択したのは、日本の教育や環境に馴染めず、小学校高学年から不登校だったことが理由です。担任の男性教師が人として対等に接してくれないことが嫌だったことと、少し学校を休むだけですぐに仲間外れにされたりする友人関係に窮屈さを感じ、6年生の時はほとんど学校に行きませんでした。

両親から学校に行くことを強制されたことはなく、ふたりとも教師をしていたので、家で勉強を教えてもらっていました。中学校に進学すると環境が変わったので通うようになったのですが、結局約4ヶ月しか通えず。その頃から、日本以外の他の世界をもっと見てみたいと考えるように。特にアメリカや英語への憧れが強く、中学校でも不登校になってからはアメリカ留学の計画を立て始め、中学2年生になる前の2000年3月20日に、アメリカのカリフォルニアに降り立ちました。

濱田:アメリカや英語など、中学1年生の時点でそこまで興味を持てるものを見つけられることがすごいです。

野竹:きっかけはたいしたことではなくて、私がアメリカや英語に惹かれたのは、カーペンターズの曲をCMで聴き、「この歌詞はどんな意味なのか知りたい」と強烈に思ったことでした。家の近くの英語教室に小学校4年時から通い始め、6年生の時に教室が主催したラスベガス旅行に参加して、実際にアメリカを体感したことでさらに思いが加速。

留学に関しては、私が不登校であることを知っていた英語教室の先生も「日本以外の国に行くのはいいかもしれない」と応援してくれました。母は「場所が変わっても、彩香の状況は変わらないのでは」と心配していたのですが、父が「行きたければ行きなさい」と送り出してくれた結果、今の私がいます。

大学でランジェリーデザインを専攻したのは、偶然だった

濱田:中学2年生から親元を離れて過ごされて、ホームシックなどはなかったのでしょうか。

野竹:最初は英語が話せず苦労しましたが、ホームシックはなく、とにかく新しい環境から全てを吸収したい思いでいっぱいでした。1年目は学校やホームステイ先に日本人が多かったので、「もっと日本人が少ない環境に行きたい」と思い、2年目はカリフォルニア州からテネシー州の学校に転校し、寮生活を送りました。

アメリカの生活に馴染んでいたので日本に帰国するつもりはなく、その後はシアトル州にある高校に進学。ファッションを仕事にしようと決めていたので、大学受験ではこの分野で有名なニューヨーク州立ファッション工科大学を第一希望に受験し、無事合格して2005年からニューヨークに移住しました。

大学の最初の2年間はファッションの基本事項を学び、3年生に進級する時にデザインの分野を選ぶのですが、私はランジェリーデザインを専攻しました。本当は洋服デザインを選びたかったのですが、専攻はくじ引きで小さい数を引いた人から選べる制度になっていて、私は約200番中160番だったんです。

洋服デザインは一番人気だったのですぐに枠が埋まってしまい、残ったものの中から選ぶことになりました。でも、私はランジェリー作りに求められるような細かい作業が得意なので、結果として自分に合っている分野を選択できて良かったと思っています。

濱田:大学卒業後の進路について教えて下さい。

野竹:大学在学中は一日中授業があり、課題も大量に出たので、朝9時から深夜2時までずっと学校にいるような生活を送っていました。そのため、将来のことを考える余裕がなかったのですが、最後の学期にインターンシップが必須だったので、ビクトリアーズ・シークレットでインターンシップを半年間経験し、卒業後はそのまま採用されました。

その時に面接を担当してくれたのが、今一緒に働いている上司です。アシスタントデザイナーとして仕事を始めたので、データ入力やパッケージの発注、レース染めなど、地道な作業から積み上げていきました。

3年半の勤務で様々な経験ができたのですが、ビクトリアーズ・シークレットは大企業なので、幅広い消費者に受け入れられる大量生産向けの商品が求められます。そのため数字やコストでデザインを評価されることが多く、たとえばコストが見合わないと、ランジェリーに付けるラインストーンの石を減らすといったデザイン変更を余儀なくされます。

だんだんと「もっと愛情を込めてもの作りをしたい」「自分が本当に欲しいと思うものを作りたい」という思いが募るように。そんな時に、今の上司が会社を辞めて新しいブランドを立ち上げると聞き、デザイナーとして誘われた時に「大量生産ではなく、この会社では自分が思い浮かべたものを作れる」と思えたのですぐに転職を決めました。

自分の時間の全てを、デザインに使えるような仕事のあり方がしたい

濱田:現在のブランドでは、どんな人をイメージしてデザインされているのでしょうか。

野竹:20代から40代で、自分がセクシーであることに恐れがなく、自分の軸を持っている女性をイメージしています。洋服の一部として着られるような、遊び心のあるデザインが多いですね。ランジェリーだけではなく既製服も展開していて、バーニーズなどの大手顧客がいますが、今後は日本への展開もしていきたいと考えています。

アメリカではベーシックで実用的なものが売れやすい傾向にあり、実は日本人の方が、少し変わったデザインでも「好きだから買う」といったファッションに対する寛容度が高いんです。私たちのブランドは楽しさを押し出した商品が数多くあるので、日本の消費者であればその部分を理解してくれると思っています。

濱田:今後のご自身のキャリアはどのように考えられているのでしょうか。

野竹:ランジェリーデザイナーとして働き続けたいですね。私はデザインをして、パターンを作り、サンプルを作るというもの作りの行程がとても好きです。そうやって商品になったものをお客様や友達が着て喜んでもらえた時が一番嬉しい。

今の会社では生産管理の部分にも関わっているのですが、将来的には自分の時間の全てをデザインに使えるような仕事のあり方を目指しています。また、ひとつの場所や会社ではなく、世界中で仕事をできるようになるのが理想ですね。


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