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白藤香さん

濱田 真里
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20代は仕込みの時期だと考えて、勉強に明け暮れた

濱田:なぜ海外に興味を持たれるようになったのでしょうか。

白藤:3世代前がみんなブラジルや樺太に移住していたので、子どもの頃から親戚が海外にいる環境で育ったことがきっかけです。「外国」が身近にあった影響で、海外のドキュメンタリーを見たり、学習百科辞典でカタカナがふってある英語の丸暗記をしたりしていました。小学生の時は、いつか世界一周をしようと思っていて。英語が必要だと思い、本屋でNHK基礎英語とラジオ基礎英語の参考書を見つけて、自発的に勉強していましたね。

高校時に留学をしたかったのですが、家庭に余裕がなかったため断念。大学に進学したら自力で行こうと決め、進学と同時に貯金計画と行き先の目標を定めました。1年間の予定をビッシリ立てて行動し、英語の勉強とアルバイトで大学4年間は休みがほぼゼロ。NHKのラジオ英語と英語塾、そして大学の英語サークルで学び、お金が貯まるたびに海外に行って、英語を使うという生活を送りました。

就職は日本以外でもいいと思っていたので、旅行先で就職情報を集めることも。でもある時、海外で日本人学生の集まりに行くと、「東京が日本の首都なのだから、まずは東京で仕事をしなくてはダメだ」「地方から海外へ行ったら負けだ」という話になって。地方出身だった私はそれを真に受け、まずは東京で就職先を探すことにしました。

当時は短大卒の女性が採用のメインで、私のような4年制大学を卒業した女性には仕事がありませんでした。加えて、女性は自宅通勤でなければ就職できないことも。私は就職市場から完全に枠外だったのですが、知人の紹介で中小企業に入社することができました。1年時は景気が低迷し、会社の経営状況も悪かったので、本当に大変でしたね。

でも、日本だけで働く気はなく、最初から海外を目指していたので、辛いことがあっても全く悲観的にならなくて。「海外で働くことに繋げるには、どうすればいいだろう」という発想で仕事をしていましたね。

当時、エグゼクティブ秘書が女性の職業としてトップレベルだったので、どんなスキルと能力があればこの職業に就けるかを想定して土日も勉強漬け。平日の夜は学校に通い、英検、英文速記、ブラインドタッチの勉強をしました。自宅にいる間は一日中、ずっと英語が聞こえる環境にして生活。2社目の就職先で外国人と一緒に働いたので、そこでビジネス英語に慣れることができました。

20代はとにかく仕込みの時期で、30代は、チャンスを自分で作って取りにいく時期。私は30代で大規模プロジェクトを3回成功させたのですが、企画から立ち上げまでを3回も繰り返すと、何でもできるようになりましたね。

その頃になると、海外出張の権限も与えられて嬉しかったです。それでも、常に気持ちを緩めずに英語の勉強を続けていました。ストイックな性格なので、目標達成のためには影の努力を惜しみません。女性が会社の中でチャンスを与えられることが少なかったので、自分でチャンスを作るしかありませんでした。

海外の女性の生き方を見て、固定概念が吹っ飛んだ

濱田:当時、女性が働くには不利な状況が多かったにも関わらず、なぜそこまで努力することができたのでしょうか。

白藤:海外で出会った女性たちをずっと意識していたからです。最初から国内にロールモデルがいなかったので、私の働く女性のお手本はアメリカと中国系の女性。ビジネス誌や雑誌に出てくる女性の記事をいつも読んで目標にしていましたね。どうすればあの人たちに近づけるかを想像し、ずっと後を追っていました。「いつか絶対こうなる」と思っていたので、会社で心が折れそうになることがあっても乗り越えることができました。

濱田:彼女たちのどんなところに憧れたのか教えて下さい。

白藤:仕事をして、自分らしく生きている姿が魅力的で、私も同じことを追求したかったんです。日本人女性は、妻や母、嫁としての役割を求められがちですが、私は10代の時から自分がそれをやれる自信がなかった。両親からは「女性も経済的に自立しなければならない」と教えられて育ちました。海外の女性は経済的自立を実現させていて憧れましたね。

特に影響を受けたのは、学生時代にシンガポールで出会ったイギリスとアメリカ人の女性からです。イギリス人女性は学者で、研究のためにインドへ行き、帰り道でシンガポールに寄っていました。当時30歳の彼女は楽しそうに仕事の話をしていて、私が「結婚しないの?」と聞くと、彼女は「今は仕事が楽しいから」と返してきて。「30歳で好きな仕事をし続けていいんだ」と衝撃を受けました。

そしてアメリカ人女性も、「アジアが面白そうだからここに来た。今はやりたいことがある」と言っていて、日本人女性の持つ固定概念や、年齢の時間軸みたいなものをまったく持っていなかった。そんな彼女たちを見た19歳の私は、「固定概念なんてなくていいし、自由な人生を歩んでいい!」と思うようになったのです。

若い人たちには、国内の女性だけではなく、海外の女性の生き方も見て、幅広いロールモデルの生き方を参考にして欲しいです。特に、行き詰っている人は、もっと地球上の多くの人の生き方や考え方に触れて、自分の生き方を掴んでみて下さい。自分に合う人を見つけて、参考にしながら自分が近づくにはどうしたらいいのかを置き換えていくことが大事。そうすることで、自分の軸を作っていくことができるはず。日本はひとつの空間に過ぎず、日本人の暮らしや働き方だって、ひとつのパターンに過ぎません。

大病や挫折をしても、好きなものは好き

濱田:夢だった海外就職は、いつ実現されたのでしょうか。

白藤:とても苦労をしましたが、33歳の時にアメリカで出会った上司に呼んでいただき、チャンスを掴むことができました。実際に働き始めると、英語よりもビジネス能力を相手と同等に持つことに苦労し、仕事についていくのが大変で。アジア人女性の場合、普通よりもさらに上を目指さなければチャンスをもらえませんでした。

その後、私は大病をして、一度キャリアを諦めることに。日本に帰国して3年ほど治療し、一時は、今後海外で働くことは難しいかもしれないと覚悟したほど。それをなんとか乗り越えた後は、海外で今までと同格か、それ以上の仕事をするために日本の大学院へ進学しました。

濱田:海外ではなく、国内の大学院へ行かれた理由とは?

白藤:海外は学費が高かったのと、自分がどの程度のレベルまで極めれば海外で互角に戦えるかわかっていたので、国内で勉強することにしました。40歳で入学したので、指導してくれる教授を探すのが大変でしたね。そこで研究をし、また海外でやっていける自信を付け、自分の会社を立ち上げました。

アメリカ人女性の場合、40代でリストラされる確率が高くなります。そうなった時のために、ある程度生き延びる術を身に付けることが重要です。私が大学院へ進学した目的も、学歴ではなく強みを作るためでした。

濱田:大学院卒業後、また海外に住むという選択をされなかったのですね。

白藤:海外に住みながら働くのではなく、東京を拠点にして海外で仕事をするスタイルにしようと決めていました。どこに拠点を置けば自分らしい仕事ができるだろうと考えた時に、自分の強みを活かせるのは東京だと思ったんです。それはアメリカで働いた経験があったからこそできた決断でした。これまで25回ほど外資系企業からオファーをもらいましたが、この考えはゆるぎませんでしたね。

今は体力が落ちていますし、両親の介護もあるので、周りをケアしながら自分の人生をどう描いていくかが、次の10年の課題です。私は大病や挫折を経験しましたが、やはり好きなものは好き。普通の女性でも、自分の潜在力を信じて努力すれば開花できるはずだと思って歩んできました。人生は常に順風満帆とはいきませんが、「なりたい自分像」を抱きながら、これからも欲張りに楽しんでいきたいと思います。


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