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松川倫子さん

濱田 真里
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28歳の時に、金融の世界から教育の世界へ飛び込んだ

濱田:現在ニューヨークで働かれていますが、いつから海外と関わるようになったのでしょうか。

松川:銀行員だった父の仕事の関係で、4才の時に半年間ほどワシントンDCの幼稚園に通っていました。その後は日本へ戻り、父の転勤で小学校5年の時に今度はイギリスへ。

そこでは中学2年の4月に帰国するまでの3年間を過ごしました。帰国後は編入試験を受け、帰国子女枠がある中高一貫の桐朋女子中・高等学校で日本の教育を受けました。そして、大学はアメリカのコーネル大学食品科学学部に入学。

きっかけは、高校3年の5月に大学進学する学部を選べずに困っていた時に、化学の先生から「アメリカの大学であれば、日本よりも学部の選択肢が広い」「入学した後でも、模索を続けられる」と教えてもらったことでした。

実際に調べてみると確かに色々な選択肢があったので、受験を決意。化学と数学の授業が楽しくて得意教科だったので、理系学部を選択しました。夏休みから海外大学受験に必要な試験対策をして、それ以降は担任の先生と家族と総がかりで受験に必要な書類の準備をし、無事合格。

大学入学後は様々な出会いによって興味関心も変化していき、3年生の前半に学部変更をして、オフィスデザインを学べるワークプレイスデザイン学部を経て卒業しました。

濱田:大学卒業後はそのままアメリカに残られたのでしょうか。

松川:いいえ。日本に帰国して、外資系証券会社であるゴールドマン・サックスに2005年に入社しました。最初の2年間は日本人上司のもとで日本の事業会社の調査をする株式調査部に所属。調査レポートの読み書きはは日英の両方の言語でこなしていましたが、そこまで英語を話す機会はありませんでした。

その後は、外国人機関投資家のお客様を担当する営業部に異動したため一気に英語環境になり、営業として的確に情報を伝える力や相手のニーズを直接汲み取る力、関係を構築し維持する力をかなり鍛えられましたね。このチームで3年間働いた後、28歳だった2010年に退職しました。

濱田:ちょうどリーマン・ショックの時期に金融業界にいらっしゃったのですね。

松川:そうですね。もっと早く業界から離れてみて他も見てみたいな、と思っていたのですが、チーム内で何人もリーマン・ショックの影響でクビになってしまい、残った以上は頑張ろうと思いました。

そして市場の波が落ち着いて来た頃、「今辞めないと、また次の市場の変化で人生を翻弄される」と強烈に思い、転職先は決めずに会社へ辞める意志を伝えました。

事業会社の価値を評価する立場から創造する側のお手伝いをするにはどこに行けばいいのか。転職活動では戦略コンサルティング会社を中心に受けていたのですが、ヘッドハンターの人がおすすめしてくれた、企業の競争力強化を人材という視点から行うグロービスで働くことに。

これまで関わってきた業界と全く違いますが、ゴールドマン・サックスの時と同じく、面接で出会った人たちに魅力を感じて入社を決めました。「ロスは早くカットしよう」という効率・スピードと目に見える結果重視の金融の世界から、「すべての人に可能性がある」という忍耐強く相手と向き合う教育(人材育成)の世界へ移動したことによる、私自身への影響は大きかったですね。

「他人に本人が気づいていない可能性を感じてもらうこと」が私の喜び

濱田:グロービスではどのような仕事をされていたのでしょうか。

松川:東証一部上場企業の管理職の方たちへの研修デザインを担当していました。2011年にある大企業にegakuというアートワークショップを導入できた時は、大きなやりがいを感じましたね。

学ぶ意欲の有無には個人差がありますが、学び合いの場での経験を通じて次第に変化していく人たちをたくさん見るうちに、「大人はどうやって学び、変化するのか」に興味を持つようになりました。

そして、グロービス在籍中に私自身も大学院に進学して学び直すことに。きっかけは、2011年の東日本大震災の直前に社内人事が変わり、コンサルタントは全員修士号を取得する決まりになったことでした。

グロービスの英語MBAコースを受験して震災の1週間前に合格通知をもらったのですが、自分自身が行きたいというよりも、周りの期待に応えようという気持ちの方が強かったので、悩んだ末に辞退。ビジネスを学ぶのではなく、やはり「大人はどうやって学び、変化するのか」を学ぶために教育学大学院に進学することを考えるようになりました。

海外の大学院を選んだのは、アメリカに住む大学時代の元カレとやり取りをするようになったことが影響しています。お互いの夏休み期間が被っていたので、2011年8月に彼とポルトガルで4年ぶりに再会しました。

そして再度付き合うことになった時に、「いつかアメリカに住める、もしくはそれ以外の世界のどこでも働けるような、武器になる修士号を取ろう」と思ったんです。そのためには、日本ではなく彼もいたアメリカの大学院を受験しようと。

興味を持ち始めていた「学びとテクノロジーの交差点」関連のプログラムがある大学院を探しました。9月にポルトガルから帰国後、すぐに大学院の受験勉強を始めて、同年12月に全部で3大学への願書を出しました。

2012年の年明けには結果が出て、念願だったハーバード教育学大学院に合格。2012年8月からグロービスを休職して、渡米、大学院に通い始めました。この時の彼とはその後別れてしまったのですが、彼との出会いのおかげでアメリカの大学院に進学して、その後ニューヨークで働くことになったので、私の人生にとって大きな存在でしたね。

濱田:大学院卒業後はどうされたのでしょうか。

松川:卒業後は、2013年の6月にニューヨークへ引っ越して、現在働いているNPO法人Acumenで夏に2ヶ月間のインターンシップを経験した後、契約社員として働き始めました。

実は、グロービス在籍中の2010年末から、東京にいるボランティアが運営していた+Acumenチャプターの東京支部に関わっていました。きっかけは私が金融業界出身だと知るグロービスの同僚から「インパクト投資って知ってる?」と声をかけられたこと。

インパクト投資とは、資本主義の仕組みを使い、貧困を含めた様々な社会課題の解決のために活動している企業に投資することを言います。そんなAcumenの事業モデルと目指す世界観に共感して手伝うようになったものの、その後、ここで働くことになるとは思ってもいませんでした。

また、Acumenの仕事と同時期に、Quipperというロンドンにある教育系スタートアップ企業での増資も手伝い始めました。この企業はグロービスから投資を受けていたので、このタイミングでグロービスを退職することに。

OPT(学生ビザでアメリカの教育機関に通うために滞在していた学生が、卒業後にアメリカに残り就労できるという期間限定のビザ)が終わる頃に、AcumenとQuipperの両方から正社員での雇用を提案されました。

色々考えた末に、私が喜びを感じるのは「他人に本人が気づいていない可能性を感じてもらうこと」であり、特に大人に対する教育に関わっていきたいと思ったので、Acumenで働くことを選択。2014年4月から正社員として働き始めて、今に至ります。

居心地の良い時期が長く続いたら、危険信号だと思うようにしている

濱田:松川さんがキャリアを考える際に大事にされていることはありますか?

松川:キャリアについての考え方は、Acumenの創設者兼CEOであるジャクリーン・ノヴォグラッツの考え方を参考にしています。「自分の強みの輪っか」と、彼女が“世界のニーズ”と呼ぶ「社会・周囲の人が必要としている部分の輪っか」が重なった部分に自分が「喜びを感じられる」場合、そこにい続ける、というもの。

ここに私の解釈を加えると、「自分の強みの輪っか」の種類や大きさは自分の努力次第で増やしたり変えたりすることができ、「社会・周囲の人が必要としているもの(世界のニーズ)」は、自分のいる場所やどんな人に囲まれているかによって変わっていきます。私はこの図を常に意識しながら、キャリア形成について考えています。

また、「自己成長できているか」も大事にしています。これはスキルを習得するタイプの自己成長ではなく、今の自分を生み出す過程で役に立ってきた、でもこれからはむしろ邪魔になるかもしれない自分の一部を乗り越えていったり、unlearn(一旦学んだことをリセットする)したり、自分が不慣れな環境・学びの機会にあふれている場所に足を踏み出してみる、という意味での自己成長のこと。

大人になればなるほどこのタイプの自己成長をすることは難しくなるので、意識することが重要かな、と思っています。私は居心地の良い時期が長く続いたら、危険信号だと思うようにしていますね。

たとえば、日本では同じ母国語を使って似たような考え方をする人たちと働いていましたが、Acumenには様々なバックグラウンドを持つ人たちがいます。だから、自分が当たり前だと思っていた前提を覆されたり予想外のことを提案されたりして、物事がスムーズに進まないことも多いです。

その分、自分の考え方やアイデンティティを振り返る機会も増えて、これまでで一番頭を使う環境にいると感じます。

Acumenで働くことで学んだのは、「2つある選択肢のどちらか一方だけを選ぶことよりも、誰もが思いつかなかった新しい3つ目の選択肢を創るほうが、一見回り道にみえたとしても中長期的に有意義なことがある」ということ。

これまでの職場では「正しい答え」を見えている選択肢の中から選び出す能力を評価されるシステムにいましたが、ここでは白黒をつけることを急ぎません。でも、そうすることで見えてくる新しい物事の見方、目指しているゴールやありたい姿に向かう新しい道筋のヒントがある、と私は信じてて。

この柔軟な考え方を持ちながら、今後の私自身のキャリアも考え続けていきたいと思います。


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