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宮本晴代さん

10月 14th, 2019|Comments are off for this post


ハンガリーでの出会いがきっかけで、報道記者を志した

濱田:現在ニューヨーク支局で報道記者として働かれていますが、この仕事に興味を持つようになったきっかけを教えて下さい。

宮本:子どもの頃から、ニュースを見たり新聞を読んだりすることが好きでした。なかでも、東西冷戦終結の象徴であるベルリンの壁崩壊のニュース映像は強く印象に残っています。人々が壁をハンマーで壊し、抱き合って涙を流す姿が目に焼き付きました。

そんな私が明確に「自分は将来記者になりたい」と思ったのは、高校2年生の時に留学をしたハンガリーでの出会いがきっかけです。海外を飛び回る商社マンだった父親の影響で自然と海外での仕事に興味を持ち、高校時代はアメリカ留学をしたいと思うように。

すると、学校の先生がロータリークラブの留学プログラムを教えてくれて、留学先を自分で決められない代わりに学費が無料という条件に惹かれて応募しました。その結果、ハンガリーの田舎町に1年間留学することになりました。

ハンガリーは冷戦時代、旧ソ連の影響下に置かれた“東側”の国です。町ではアジア人の滞在は私が初めてだったため、物珍しさから私が歩いていると子どもが後ろを着いてくるような状況でした。

現地ではホストファミリーの家でお世話になったのですが、その家庭では食事の時に、誰も座らないのに一人分のお皿が用意される席がありました。ある晩ホストマザーに理由を尋ねると、こう教えてくれました。

「冷戦中、もうこんな暮らしは嫌だと思って西側に亡命しようとしたの。私のお腹に初めての赤ちゃんがいた時ね。人目につきにくい冬の夜に国境を越えようとしたけれど、森の中に銃を持った兵士がいて、あまりに怖くて寒くて、赤ちゃんを流産してしまった。これは、あの子の分の席なの」と。

この時初めて、“ベルリンの壁の向こう側”で起きていたことを知り、「この人たちは、私がベルリンの壁のニュースを見た時に、壁の向こう側で泣いていた人たちだったんだな」と思いました。

そして、自分はこういった声なき人たちの声や、世に知られるべき事実を掘り起こして伝える報道記者になろうと決意したのです。

濱田:報道記者を目指されながら、大学ではなぜドイツ語学と国際関係学を選ばれたのでしょうか。

宮本:新聞記者やニュースの仕事をする時に、何らかの専門分野があった方がいいだろうと思ったからです。ジャーナリズム的なことは会社に入ってから実地で学べるだろうと考えていました。

ドイツ語を選んだのは、ハンガリーを始めとするEUに加盟した東ヨーロッパの国の多くの若者がドイツ語を学んでいたので、EUのことを理解するにはドイツ語が必須だと思ったから。また、当時の上智大学ではダブルメジャーが可能だったため、国際関係学も専攻しました。

待っているだけではチャンスは掴めない。会社で熱意をアピールし続けた

濱田:大学卒業後はTBSに入社されて、報道記者になるという夢を実現されたのですね。

宮本:そうですね。この仕事を選ぶ時に、「絶対にニューヨークなどの海外支局で仕事をする」という夢をノートに書いていたので、今はその夢も叶いました。

入社した時から「海外に行きたい」と上司や周りにずっと言い続け、ここに来るまで13年間待ちましたね。企業派遣で海外に行く女性は増えているとはいえ、まだ少ないのが現状です。記者という仕事の特性上、時間的な拘束が長く、たとえばテロや大災害などが起きると家に帰れないことも。家族の理解を得られないと、続けることが難しい仕事だと思います。

濱田:13年間待ち続ける中で、悩んだり諦めそうになったりすることはなかったのでしょうか。

宮本:30歳くらいの時に、このまま仕事を続けるか悩んだ時期がありました。でも、仕事でちゃんと成果を出していれば道が拓けると考え、自分ができることを一生懸命しようと切り替えたんです。

元ヤンキースの松井秀喜選手の「自分がコントロールできることとできないことを分けて考えなければいけません。そして、コントロールできることについては、結果につなげるべく努力をします」という言葉には背中を押されましたね。その後は、面白いと思えるテーマを見つけたり自分の提案が報道されるようになったりして、どんどん仕事に夢中になっていきました。

長い会社人生の中で、「この会社でこのまま働き続けても、やりたいことができるのだろうか」「今の部署は面白くない」と思うこともあるかもしれません。でも、会社だからこそできることは絶対にあるので、ぜひそれを見極めて下さい。

私の場合は、原点である「世界で起きていることを日本の人に伝えたい」という思いを実現させるには、日本のテレビ局という組織は最適であるように思いました。辞めること自体は簡単なので、仕事を辞めたら本当に自分がやりたいことをできるのか、熟考した方がいいと思います。

上司も様々なチャンスをくれて、海外関連の取材をさせてもらい、日本に住みながら年の3分の1は海外にいる時期があったほど。海外で大きな出来事が起きた時は、必ず「行きたい!」と主張して、北朝鮮の取材やイギリスがEUから独立した時の取材もできました。自分の熱意を会社の中で必死に伝えていましたね。

ある上司からは、「待っているだけではチャンスは掴めないから、人事面談では『海外に行きたい』ではなくて、『海外のどこに、なぜ行きたいのか』、『そこに行ったらどんな形で貢献できるか』ということを事細かに書いたレポートを提出した方がいい」というアドバイスをもらい、その都度レポートを書いてアピールをしていました。

また、自己評価申告をする際も、「女性は自分を低く評価する傾向があるから、5段階評価の場合は普通レベルの3を付けがちだけど、全部5を付けて自分を売り込め」と言ってくれた上司がいました。

もし3を付けた場合、本人が3と付けている以上、評価を4や5に上げるにはそのための理由を企業側が探さなくてはいけません。だから、紙上で書くべきことを書かないと損するよと言われ、色々書くようになりました。でも、アピール内容は実績に基づいていることが大事なので、そのためにも普段の仕事は全力でやります。

この上司からのアドバイスがなければ、出る杭だと思われることを恐れて、自己評価を高く書くことはありませんでしたね。海外赴任ができるかわからない状況の中で、できることはすべてやった方が良いと思って行動しました。

悩んだ時は「楽そうな道」ではなく、「大変でも楽しいと思える道」を選ぶ

濱田:この仕事をされていて、どんな時にやりがいを感じますか?

宮本:「自分がいなかったら伝えられなかった」ニュースを伝えられた瞬間に、やりがいを感じます。ニュースというのは、機械で自動的に生成されるものではありません。

起きている事象を報道すべきか、どこが最も大切か、何を一番伝えるべきかを現場の人間が取捨選択します。なので、個人の問題意識や感性=“物差し”が反映されています。この“物差し”は人によって異なる正解のないものだからこそ、とても人間臭い仕事だと思います。

ニューヨーク支局に来てからは、「記者として自分が派遣されてきていることの意義」を強く意識するようになりました。今は日本にいながらでも、世界のどこかで起きている事象について知ることは難しくありません。

そんな時代に私が日本から派遣されている意味は、「日本人の記者である私」ならではの“物差し”をフル活用することだと思っています。南北アメリカ大陸や国連で起きる様々な事象について、価値判断の最前線にいるのが今の私です。

ここで起きていることは、日本にとってニュースなのか、現場で何を感じて何に一番驚いたのか、日本の視聴者に伝えるべきポイントは何か等、私ならではの“物差し”をフルに働かせています。

濱田:最後に、読者の方へメッセージをお願いします。 

宮本:自分がやりたいと思うことと、そのハードルの高さを比べて悩むことはたくさんあります。でも、悩んだ時は「楽そうな道」ではなく、「大変でも楽しいと思える道」を選ぶようにしています。

それは、心の底から楽しいと思えることとの出会いは、そうそう多くないからです。皆さんも、もし楽しいと思えるものがあったらぜひそれを大事にして下さい。人生は思っているより短く、命は儚いので、無駄にせずに思い切り生きたいと思います。