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五十嵐祥子さん

濱田 真里
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何気なく後輩に提案した話がきっかけで、バークリー音楽大学に挑戦

濱田:現在ニューヨークを拠点にサックス奏者として活動されていますが、音楽を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

五十嵐:5歳くらいからピアノを習い始めたことです。そこで自然と楽譜を読む力を身に着けました。サックスとの出会いは、小学4年生の時のブラスバンド部の見学会。

一目見て「かっこいい! 私もこれをやりたい」と思い、小学校5年生から入部できるため、学年が上がるとすぐ入部してテナーサックスを吹き始めました。テレビアニメ『ルパン三世のテーマ』が昔から好きなのですが、サックスを始めてから、自分がこの曲内でずっと好きだった音がサックスだったということに気付きましたね。

サックスを始めてすぐに、カワイ音楽教室で生徒募集の張り紙を見つけて月1で通うように。その先生がジャズサックスをされていたので、小学校と中学校ではブラスバンド部に所属しつつ、プライベートではジャズの勉強をしていました。

中学2年生の時に、ジャズの先生から「高校や大学でもジャズを勉強できる」ということを聞き、家に帰ってネットで検索すると神奈川県にある洗足学園高校の音楽コースにジャズ科ができたことを知り、「これだ!」と思って母親に「洗足学園高校に行きたい。もし行けないのであれば中卒になる」と宣言。

音楽コースに入学するには、洗足学園高校主催の音楽教室に通ったり有名な教師に学んだりした方がいいと言われたのですが、山形県から神奈川県まで通うのは難しく、オープンキャンパスや短期の音楽教室に通うことでアピールし、合格することができました。

濱田:高校進学時から実家を出られているのですね。

五十嵐:実家や地元のある場所は大好きなのですが、「東京の近くに住みたい」「外の世界をもっと見たい」という好奇心が強かったんです。

田舎だったので中学卒業くらいまで外国人を見たことがなく、英語も話せなかったのですが、小さい頃にテレビCMで様々な人種の子どもたちが芝生の上で授業している様子を見たことがきっかけで、「将来は海外に行こう」と思っていました。自分の知らない世界があると、飛び込んでみたくなります。

高校卒業後は、山形で通っていた時のジャズの先生から「ジャズを学ぶなら、バークリー音楽大学がおすすめ」とずっと言われていた影響もあり、バークリー音楽大学に入学したいと思っていました。

でも、英語があまりにも話せなかったことと、大学卒業後に音楽家として稼いでいく方法がわからなくて、挑戦することを躊躇していました。そこでいったん付属の洗足学園大学のジャズコースに進学。大学には様々なモチベーションの人たちがいたのですが、私は本気でジャズをやる人に囲まれたかったので、だんだんと環境を変えたいと思うようになりました。

そんな時に、2つ下の高校の後輩がバークリー音楽大学を受験すると聞き、「もし、ふたりとも合格したらアメリカで一緒に住む?」と何気なく提案すると賛成してくれたので、彼女に勇気をもらって私もオーディションを受けたんです。

実は、洗足学園大学とバークリー音楽大学は提携校で、アジア地区のオーディションが洗足学園大学で行われる予定でした。しかも、ちょうど私が受験する年が提携の修了する年だったんです。そして、後輩と留学の話をし始めた約3ヶ月後に、ふたりともバークリー音楽大学に合格。

私はアメリカにすぐに行ってサマープログラムに通うという条件付き合格でしたが、夢が叶って本当に嬉しかったですね。大学2年時の2012年3月に大学を中退して、5月にはアメリカへ渡り、単位互換制度を使って2年半で卒業しました。後輩とは合計3年間一緒に住み、背中を押してくれたことには今でも感謝しています。

アメリカに来てから、プライドを捨てて自分ができないことを認められるようになった

濱田:念願のバークリー音楽大学での学生生活はいかがでしたか。

五十嵐:世界中の才能あふれる人たちと一緒に学ぶことができる、最高の環境でした。また、素晴らしいミュージシャンでもあり教育者でもある先生たちは、聞いた質問に対して何でも答えてくれて、知識欲がどんどん満たされていきました。

私は日本にいる時、自分が本当に好きな音や演奏がわからなかったんです。だから、とにかくたくさんサックスを練習して、人よりも上手くなることを目指していて。でも、バークリー音楽大学では、興味があることを先生に伝えると日本ではもらえなかったような情報をくれたり共感してもらえたりするので、どんどん自分が好きなものが明確になっていきましたね。

たとえば、日本だと「変なニュアンスをつけたらダメ」と言われるような吹き方でも、ここで吹くと「それが好きだったら、君の特徴になっていくから追求していくといい。でも、その吹き方をすると、こういう捉え方をされる場合もある」と自分で選択するためのアドバイスをもらえるんです。この学び方は私に合っていました。

濱田:大学卒業後はどうされたのでしょうか。

五十嵐:卒業して4ヶ月後にボストンからニューヨークに移り住みました。「演奏するならニューヨーク」という意識があって、大学の友人たちもみんなニューヨークに行きましたね。実は、当時父の病気が発覚したため、帰国することも考えたんです。

母に相談すると、「一度日本に帰ってしまったら、アメリカに戻るのが難しくなるんじゃない?」と言われて。日本に帰国しても、実家ではなくひとり暮らしをしなさいと言われていたので、結局は東京で仕事を探して暮らすことになります。

東京にいてもニューヨークにいても、両親は山形にいて状況は変わらないので、それであればニューヨークに残ろうと決意。ただ、残るためのアーティストビザの取得には本当に苦労しました。

弁護士に頼むと高額な費用が必要になるので、自分で取得した経験があるルームメイトに教えてもらい、これが取れなかったら帰国するつもりでした。ビザを取得するにはアーティスト活動を認めてもらう必要があるので、とにかくアピールする実績があることが重要です。

CDを出していると有利だと聞いてCDを作ったり取材をしてもらったりした結果、半年後に無事ビザを取得できました。この一連の行動で、昔の自分だったら考えられないくらいチャンスに対して貪欲になりましたね。

濱田:アメリカで暮らすことで、ご自身の中に色々な変化が生まれているのですね。

五十嵐:そうですね。元々自分で何でもやろうとするタイプでしたが、アメリカに来てからひとりでやるには大変すぎることが多くて、できない自分を隠さないようになりました。プライドを捨てて自分ができないことを認めて、他人に助けてもらわなければ前に進めません。

たとえば、アメリカに来た日、私は約30キロある大きなスーツケースと楽器を3本持って電車に乗ったんです。駅に到着すると、階段しかなくて途方にくれてしまいました。そんな時に女性が来て、「必要なら助けてあげるけどどうする?」と聞いてくれて、助けを求めた結果、無事目的地にたどり着けました。

「人にやってもらうなんて悪い」と思って遠慮しがちでしたが、そこはギブアンドテイク。人との出会いを大事にして、自分ができることで他の人の手助けをすればいいと思うようになりました。

ニューヨークには上手いミュージシャンが大勢いるから、同じことをしても意味がない

濱田:今後目指されていることを教えて下さい。

五十嵐:最終的に音楽だけで食べていけるようになりたいです。とにかく演奏することに集中できる環境を作りたくて。この街では、自発的に動かないとどんどんチャンスがなくなっていくので、できることに積極的に挑戦していきます。

今目指しているのは、「この音、聞いたことある」と言われるような特徴的な音を出すこと。ニューヨークには上手いミュージシャンが大勢いるので、その中で目立つには同じことをしても意味がありません。

留学当初は、なんでもできるような技術力の高さを目指していましたが、今は個性的な演奏をする人が気になります。100人中100人が技術的に評価するけど個性がない演奏より、印象に残るような演奏やパフォーマンスが独特の雰囲気で楽しい演奏の方が、私は聴きたいと思うんです。だから、自分の持ち味を発揮するような演奏を追求していきたいと思います。


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