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宮嶋みぎわさん

濱田 真里
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親友は、私以上に私のやりたいことを見抜いていた

濱田:現在ニューヨークで、ジャズ・ピアニスト、作曲家、プロデューサーといった様々な活動をされていますが、いつから音楽を始められたのでしょうか。

宮嶋:3歳からピアノを弾いていました。第二次世界大戦の終戦直後に生まれて、ピアノを習いたくても習えなかった母が、娘にはピアノをと考えてくれたため、小さい頃からピアノが側にあったのです。私にとっては言葉を話すことと同様に、自分の感情表現をするツールのひとつがピアノでした。

本格的に習い始めたのは5歳から。当時のピアノの先生が作曲もされている方で、いつか作曲家になりたいと思うようになりました。

初めての作曲は、6歳の時に作った「サーカス」という曲。家族でサーカスを見た日に、帰宅するなり私が部屋の奥にあるピアノまで走って行って突然曲を作ったらしいんです。15歳の時には作曲コンテスト全国大会で優勝し、幼い頃から音楽は大好きでした。

濱田:それにも関わらず、音大などで音楽を専門的に学ぶ道を選ばれなかったのはなぜでしょうか?

宮嶋:当時の教育環境だと、音楽を志すと、イコール、他の勉強ができなくなることが分かっていたからです。音大に行きたければ、子どもの頃から音楽の勉強に集中する必要があり、東京の有名な先生にレッスンを受けるために、実家があった茨城からわざわざ東京まで通うことになります。

算数や社会なども幅広く勉強して、バランスの取れた人間になりたいと小学校4年生ぐらいから思っていましたし、田舎に住んでいたので、周りに音楽家がいなくて音楽で生活していくイメージが湧かなかったというのも大きいですね。

周りからは音大への進学を勧められましたが、悩んだ末に上智大学文学部教育学科に進学しました。高校3年時に音大に行かないことを決めてからは、ピアノのレッスンもやめました。

すると、風邪を引きやすくなったり、疲れてすぐ寝込むようになったりと、いつも体調が優れない状況になってしまったんです。大学に進学してもそれは続きました。きっと、自分のアイデンティティと深く結びついていた音楽をやめたから、心と体のバランスがとれなくなってしまったんですね。

濱田:そんな状態からどのようにして抜け出されたのですか?

宮嶋:大学でできた親友が、私を音楽の世界に引き戻してくれました。親友たちには、高校時代に趣味でピアノの弾き語りをしていたことを話していて、録音した演奏を聞かせたことがあったんです。

大学2年生の4月、サークル勧誘の時期に、「私は虚弱体質だから、今年も勉強かな」と言うと、親友が「みぎわの体調が悪いのは、音楽から逃げているからだ!」と真顔で迫ってきたんです。帰国子女の彼女はジャズの存在を知っていて、「クラシックピアノがだめなら、ジャズピアノをやればいい!」と言って、私の手首を掴んでジャズサークルのブースまで引っ張って行きました。

そして、「この子が入部したいそうです! 作曲も演奏もできるし、全国大会で優勝した経験もあります!」と私の代わりに猛アピール。サークルの先輩たちは喜んで「こんな音楽をやっているので、ぜひ聴いてみて」とデモテープを渡してくれて、これが私の人生を変えてしまいました。

ひとりでピアノに向かうイメージの強いクラシックピアノとはまったく違う、大人数でのアンサンブル。強いリズムと心がおどるようなハーモニー。ビッグバンド(ジャズ・オーケストラとも呼ぶ)が持つ音楽性と世界観に衝撃を受け、一気に惚れ込んでしまいました。

そして、入部を決意。実は、この時に聴いたデモテープには、その後副プロデューサーとして関わる「The Vanguard Jazz Orchestra」((以下VJOと略))の楽曲も入っていました。何年も続いた体調不良は、音楽を再開するとすぐ治ってしまいました(笑)。

親友は、私以上に私のやりたいことを見抜いていたんですね。人生のなかで、「この人なら自分のことを心から愛してくれているし、わかってくれている」という信頼できる人が、様々な立場で現れてくるはず。そういう人たちが何かを真剣に言ってくれた時は、耳を傾けることが重要だとこの時学びました。人は自分のことが見えているようで、見えてないことがありますから。

30歳の時に会社を辞め、音楽家として活動していくことを決意

濱田:大学卒業後はリクルートに入社されていますが、音楽とはどのように関わられていたのでしょうか。

宮嶋:平日は仕事をして、土日に音楽活動をしていました。全曲オリジナル曲を演奏するビッグバンドmiggy+(ミギーオーギュメント)を立ち上げたのですが、徐々に人気が出てきてライブチケットが毎回完売するまで成長し、東京で最も人気のあるジャズバンドと言われていました。

一方、有名雑誌の編集デスクになり、部下を持って仕事をするように。でも、段々と「会社員」という形での社会貢献は、私の天職はではないと感じ始めました。入社から7年半を迎えた30歳の時に、音楽家として活動していくことを決意し、会社を退職しました。

濱田:かなり思い切った決断に聞こえるのですが、辞めた後の計画などはあったのでしょうか?

宮嶋:いいえ、準備を全くせずに辞めてしまい、収入を得るための算段はゼロでした(笑)。普段は事前に準備するタイプなのに、その時は何も考えなかったので、変だな…と今でも不思議に思いますが、でも一方で、世の中を変える人には、こういう想像を超えるような行動力が必要だと思ってもいます。

会社を辞めて肩書きがなくなった状態での暮らしは、正直大変でしたよ。お金は減る一方で、ついに貯金が底をついて、音楽以外のアルバイトも必要になりました。リクルートを辞めてから東京を拠点に8年間音楽活動をしましたが、アルバイトなしで生活できるまでには3年ほどかかりましたね。

後ほどまたお話しますが、その後2012年9月に、文化庁新進芸術家海外研修制度、という芸術家の留学制度に選出いただいたことで、アメリカニューヨーク市に移住、1年間勉強し、その後もニューヨークに残って働いています。

濱田:ニューヨークは、まさにジャズの本場というイメージです。

宮嶋:そうですね、ニューヨークはジャズを勉強する人間にとって憧れの土地です。素晴らしい腕前を持つ人たちが世界中から集ってきていて、そこにいるライバルたちと切磋琢磨していくことで自分の技が磨かれていきます。

私は2004年にリクルートを退職後、1年に1度は音楽の勉強のためにニューヨークに通っていました。プロデューサーとして仕事をするようになったVJOとの出会いもこの街です。

VJOとの出会いは劇的でした。大きな失敗により、予定していたコンサート等が全てキャンセルになってスケジュールががら空きになった事があったのです。落ち込んでいた私に友人が「VJOが1週間毎日演奏をするアニバーサリーウィークがニューヨークであるから行ってきたら」と背中を押してくれたのです。

VJOはニューヨークにあるジャズミュージシャンの聖地「Village Vanguard」ジャズ・クラブで50年以上毎週月曜日に演奏しているバンドで、私はここへ単身乗り込みました。2008年2月のことです。

この時期のニューヨークはとても寒いのですが、ドアが開く1時間前から並び、1週間毎日、最前列の席で演奏を聞きました。10代の頃から憧れ続けたスターたちの演奏は本当にすばらしく、五線譜にメモをしながら毎日涙を流して演奏を聞いていました。

ジャズ・クラブは観客と演者の距離が近いので、そんな私の様子に気づいたメンバーから「あなた、絶対にミュージシャンでしょう」と声をかけられたんです。当時の私は、片言の英語しか話せませんでしたが、それでも「音楽の学校で勉強をしたことがないけれど、私も日本でビッグバンドジャズやジャズピアノをやっている。これまで30曲ほど作曲をしてきて、もっとジャズの勉強がしたくてニューヨークに来た」と必死に伝えました。

すると、その話に感動したメンバーが他のメンバーにも紹介してくれて楽屋にも入れてもらえるように。1週間が終わる頃には、彼らとすっかり仲良くなっていました。そして、会話をしていくうちに、VJOのCD販売数は日本が圧倒的に多く、彼らが日本ツアーに興味を持っていることがわかったんです。「これはチャンスだ!」と思いました。

当時、私は日本で学生バンドを教えていたのですが、日本にはジャズのファンはたくさんいる一方、ジャズ教育の機会が少ないことに危機感を持っていたんです。学びたい人はいるのに、学べる場所がない。そのことを色んな教育機関に訴えたりもしたのですが、どこも動いてくれませんでした。

ところが、VJOと話すうちに、彼らが実はジャズ教育を通じて世界に貢献することを目的としたNPO法人でもあるということが判明したんです。大好きなVJOが日本ツアーに興味を持っていて、しかもジャズ教育にも携わっている。まさに運命のようなものを感じて、滞在した1週間の間に「絶対に彼らと日本ツアーをやろう」と決意しました。

私の生き方が、誰かの人生にとってひとつのサンプルになったら本当に嬉しい

濱田:VJOの日本ツアー実現に向けて、どのように動かれたのか教えて下さい。

宮嶋:日本帰国後、100人くらいの人に会いに行き、VJOの日本ツアーの話を提案しました。でも、前例がないので絶対に無理だと、99%の人からやめたほうがいいと言われたんです。その中で唯一、理解を示してくれた方が青山にあるブルーノート東京さんに繋いでくださり、VJOと出会って1年半後の2009年に、VJOとしては初の、前身となったバンドから数えると20年ぶりの日本ツアーを実現させることができました。

ブルーノート東京で4日間のライブをしたのですが、4日間合計8公演が全て歴史に残るほどの大入り満員で完売になってしまい、業界が驚くほどのツアーになりました。その後、VJOは会場をビルボードライブに移し、2016年まで毎年日本ツアーを続けました。

初回ツアーはボランティアですべてをコーディネートしたのですが、そんな私の行動を見たVJOから、ツアーが成功した翌月の2010年1月に「正式に日本人代理人に就任してほしい」というオファーをもらいました。自分をジャズの世界に引き込んでくれた憧れのジャズオーケストラの一員になれる日が来るなんて、まるで夢のようでした。

そして、「もっとジャズを勉強するために、ニューヨークに住みたい」と思うようになり、38歳の時に文化庁の「新進芸術家海外研修制度」という研修制度に合格して、2012年の秋から1年間ニューヨークでジャズの勉強をしました。

それまではいつも何か別の仕事をしながら音楽を学んでいた私にとって人生で初めて音楽だけに集中できた素晴らしい期間でした。その後もニューヨークで音楽活動を続け、現在に至ります。

濱田:宮嶋さんが夢を叶えていく姿に、勇気をもらう人が大勢いるように思います。

宮嶋:私の生き方が、誰かの人生にとってひとつのサンプルになったら本当に嬉しいですね。日本は「こういう風に生きるべき」という枠が強くて、その枠に自分をはめようとして苦しんでいる人がいるように思います。

私は会社を辞めたことでその枠を壊してしまい、自分で道を作るしかない状況になって一時期は本当に大変でした。でも、その大変さを経験したからこそ今の自分がいます。これまで私はたくさんの人に助けていただき、育てていただきながらここまで来ました。

人生に迷っている若い人たちに「こんなユニークな存在でもいいんだよ」ということを発信していくことが、お世話になった皆さまへの恩返しにもなると思っています。


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